英語のスペシャリスト戸田奈津子インタビュー#1

〜字幕翻訳家というお仕事〜

  • 写真:笹原清明

    写真:笹原清明

 アメリカ映画のとりことなり、そこから漠然と志すようになった字幕翻訳家。『タイタニック』、『スター・ウォーズ』、『パイレーツ・オブ・カリビアン』といった超大作の翻訳を手がけるなど、今では日本を代表する翻訳家である戸田奈津子氏であるが、そこに至るまでに20年もの年月を要したという。字幕翻訳家としての彼女の使命を語ってもらった。

諦めなければ開ける、字幕翻訳家という狭き門

――英語のお仕事に就こうと思ったきっかけは?
戸田私の場合は、英語が先ではなく、あくまでも映画ありきでした。終戦直後にアメリカ映画が日本になだれ込んできて、母や伯父に連れられて毎日のように映画館に見に行って、言葉にできないほどのカルチャー・ショックを受けて、とりこになりました。最初に洗礼を受けたのは、1946年にアメリカ輸入映画第一号として公開された『キュリー夫人』。私は、まだ小学校の低学年でしたが、それまで本で読んでいた外国の世界が「ぱーっ」と広がって、たちまち映画に夢中になったのです。
――字幕翻訳者になりたいと思ったのは、ずっと後ですか?
戸田そうです。とにかくアメリカ映画が好き。となれば、聞こえてくる英語のセリフを少しでも聴き取りたいという思いもあって、中学、高校時代は他の科目よりは興味を持って勉強するようになりました。大学も英文学科に進んで。とはいえ、授業そっちのけで、暇さえあれば映画館に入り浸っていましたけどね(笑)。そんな中で、クラスメイトは就活を始めるわけですよ。そこで周囲からよく口にされた言葉が「就職はどうするの?」。そして、私が自然に答えたのが「字幕の翻訳でもやろうかしら?」。当時、英文科の学生の人気の職業はスチュワーデス(現:キャビンアテンダント)でしたし、同級生は教員になる人も多かったのですが、私はそういう職業にいっさい魅力を感じない。迷いに迷うなかで漠然と浮き上がったのが字幕翻訳の仕事でした。
――どんな経緯で字幕翻訳のお仕事に?
戸田話せば長いですよ(笑)。まず、英米字幕翻訳の先駆者・清水俊二先生の住所を電話帳で調べて、いきなり「字幕翻訳の仕事をしたいのですが」とお手紙を出して、幸運にもお会いすることになった。でも、そこで言われたのは「困ったなぁ。難しい世界だからねぇ」で、がっかりしました。正直、あの時はなぜ「難しい」のかも分からなかったのですが、今となれば「職業としてチャンスが巡ってくるのも難しいし、技術そのものが難しい」ということはわかりますが。
――それでも諦めなかった?
戸田ここで「諦めはしないぞ!」という気持ちはありました。字幕翻訳の仕事は簡単にできないということが分かったけれど、卒業したらパン代を稼がなければならないので、とりあえず生命保険会社に就職しました。そこを1年半ほどで辞めて、今で言う「フリーター」に。通信社の原稿を書いたり、化粧品会社や広告代理店の資料を翻訳するアルバイトをしつつ、清水先生に「字幕への夢は捨てていません」という年賀状を出してさりげなくアピールして。そうするうちに、先生が関係しているテレビ番組の輸出会社を紹介してくださって『鉄腕アトム』などの和文英訳を何作か手がけて……。それによって、より「字幕をやりたい」という思いが募りましたね。
――そこから、字幕翻訳の仕事をするようになった?
戸田とんでもない。映画会社への扉が開いたのは、大学卒業してからほぼ10年後。それでも仕事は、アメリカ本社への手紙の翻訳とかシノプシス(あらすじ)の翻訳とか。シノプシスの翻訳は、長い英語台本を映画会社のスタッフのために20〜30枚の原稿用紙に日本語で要約する作業。誰もがすらすらと英語が読めるわけではないので、和訳したシノプシスを読んで売れ線の作品を探そうというものです。この要約&翻訳がかなり難しい。しかも、1本数千円とギャラも安い(笑)。でも、後に字幕翻訳をする時には、この経験がいい勉強になって、大いに助かりました

観客に字幕を忘れさせるくらいの感動を伝える それが私の目標

――本格的な字幕翻訳者デビューはいつ?
戸田1969年に入ってから。ドイツ映画祭に出品される小さなドキュメンタリー映画の字幕を手がけてはいましたが、本格的な作品はフランソワ・トリュフォー監督の’70年に公開された『野生の少年』の翻訳の仕事をいただいて。この作品はフランス映画ですが、英語版に変えられていたのでまだ良かったのですが、次にいただいたジャン=クロード・ブリアリ監督の『小さな約束』はフランス語のまま。でも、 「せっかく来たチャンスだから」と思って「石にかじりついてもがんばるぞ!」と。専攻は英語でしたが、第二外国語がフランス語だったので、なじみもある。そこで、辞書を引き引き何度も原稿を見直して、推敲を重ねて納品しましたね。
――大作『地獄の黙示録』でブレイクするのは、それからほぼ10年後?
戸田各映画会社から降るように仕事を依頼されるようになったのは、字幕を志してから実に20年が過ぎていました。それも、その間に“通訳”という思いがけない仕事もするようになったことがきっかけでした。そう、最初は『地獄の黙示録』をフィリピンで撮影していたコッポラ監督が日本に立ち寄る際の通訳をさせていただき、そのご縁でロケ地にも伺いました。後で知ったのですが、監督自身が「彼女は現場でずっと私の話を聞いていたから、字幕をやらせてみたらどうか?」と言ってくださったそうです。通訳は、字幕翻訳を志す私にとっては、本当にありがたいボーナスのようなものです。多くのスターともめぐりあわせてくれましたしね。
――翻訳をする上で大事にしていることは?
戸田字幕翻訳は、一般の英文翻訳とは違います。画面に映し出される文字も本来は1秒につき3〜4文字というルールにのっていますから、長いセリフも要約や意訳が必要です。最近では、文字を読むのが面倒くさいという若者が増えて吹き替えが主流になってきましたし、文字数制限も緩いい。そんな字幕を取り巻く環境が変わっても、私のポリシーは変わりません。観客に映画を楽しんでもらうこと。それが字幕翻訳者としての使命だと思います。原文に忠実な直訳をとるか、ドラマの感動を伝える意訳をとるか。どちらか選ばなければならない場合は、私は迷わず後者を選びます。映画を見終わった観客が、字幕を読んだことも忘れて「楽しかった」、「感動した」と言ってくれる。それが、この仕事を始めたときからの私の目標です。
戸田奈津子
東京都出身。津田塾大学英文科卒。大学在学中に字幕翻訳家を志すも門は狭く、生命保険会社の秘書や翻訳・通訳のアルバイトをしつつ翻訳家としての機会を待つ。その間、英米字幕翻訳の先駆者・清水俊二氏に師事。1970年公開の『野生の少年』でようやく本格的な作品の字幕翻訳を担当。さらに10年近い下積みを経て『地獄の黙示録』(1979年)の翻訳を手がけたのを機にプロとしての地位を確立。以来、現在に至るまで数多くの名作・大作の翻訳を担当、来日する映画人の通訳も依頼され、長年の友人も多い。
著書に『KEEP ON DREAMING 戸田奈津子』(字幕翻訳の第一人者が語る初の自伝ノンフィクション)、『ときめくフレーズ、きらめくシネマ』(100本の映画から100本のセリフをピックアップと戸田奈津子が語る、生きた英語の習得述)など。いずれも双葉社より発売中。
【文/金子裕子 校閲/磯崎恵一(株式会社ぷれす)】
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